成田空港 空と大地の歴史館

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空港と地域の歴史

空港問題とは

1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上した。建設地をめぐって複数案が出され、候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返された。1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上した。この案は7月4日、突如閣議決定された。

以来、その大地で生き続けてきた用地内住民、周辺住民と、建設を推進する国家的プロジェクトとの間に厳しい対立を生み、さらに支援者をまきこんで激しい闘争の歴史を刻んできた。この地に空港を建設するということは、土とともに生産活動を展開してきた農民の魂を激しく揺さぶり、空港建設を至上命令として取り組む建設側との間にのっぴきならない摩擦や亀裂を生んだ。砦や要塞、鉄塔、団結小屋などを建設し、さまざまな手段で空港建設を阻もうとする農民と支援者、土地収用法など強制力を行使するために機動隊を動員した建設側、両者の間には、しばしば力対力の構図が生じ、その激突の中で双方に多くの犠牲者が出た。

こうした状況の中で、1978年に空港は1本の滑走路で開港したが、両者の溝は埋まらないまま、こう着状態が続いた。それを打開するために、反対同盟と運輸省(当時)は話し合いの場を模索し、曲折を経て、両者の間に立つ隅谷三喜男を団長とする調査団が発足した。「成田空港問題シンポジウム」は、1991年から93年にわたって15回開かれ、抜きさしがたい対立を生んだその原因を検証した。結論は、空港の位置決定について地元との十分なコンセンサスがないまま、国や公団が空港建設を強行したことにあるとし、国は収用申請を取り下げ、二期工事を白紙とした。その後、シンポジウムの合意に基づき、地元や空港の在り方を今後どうするかについて、地元住民も参加する対等な立場での話し合い「円卓会議」(93年~94年まで12回開催)が行われた。位置決定から28年の歳月を経て、地域と空港の共生をめざす「成田空港地域共生委員会」が発足し、住民の立場から空港の運用と建設をチェックする第三者機関として活動を開始した。そのなかで、この間の歴史を正確に伝えていくことを目指す歴史伝承部会も誕生した(1997年)。この部会が、歴史館につながっていくことになる。

  • 成田空港 空と大地の歴史館
  • 名誉館長 新井 勝紘